抗がん剤治療の副作用の多くは、薬が正常な細胞まで無差別に攻撃してしまうことに由来する。理化学研究所と東京科学大学の研究チームは、一部のがん細胞で生成が高まっている一酸化炭素(CO)を「材料」として利用し、がん細胞の内部でだけ抗がん活性を持つ化合物を合成させる手法を開発した。薬そのものを投与するのではなく、無害な前駆体を細胞に届け、がん細胞自身の代謝を使って初めて毒性を持つ物質に変える発想で、正常な細胞への影響を抑えられる可能性を培養細胞の実験で示した。ただし現時点は概念実証の段階で、動物・臨床試験による安全性の確認はこれからだ。
「がん細胞に自分で薬を作らせる」仕組みとは
研究チームが開発したのは、血液中のたんぱく質アルブミンの疎水性ポケットにパラジウム錯体を固定した「アルブミン-パラジウム複合体」。目印となる分子でアルブミンの薬物結合部位に狙いを定めており、細胞内の解毒物質グルタチオンが多量に存在する環境でも触媒として働き続ける。細胞に取り込まれた後、細胞内のCOと反応し、フェナントリジノン骨格を持つ生理活性化合物(トポイソメラーゼI阻害活性を持つ)を合成する。「薬を作ってから届ける」従来の発想とは逆に、無害な前駆体を先に届け、がん細胞内のCOを材料としてその場で化学合成する点が新しい。COは単なる引き金ではなく、できあがる化合物の構造の一部になる炭素源だという。
正常細胞と比べ最大約9倍の薬剤を合成
論文によると、培養48時間後にCOを利用して生成された化合物の量は、肝がん・子宮頸がん・乳がん・肺がんの4種のがん細胞株で、正常な線維芽細胞と比べて最大約9倍(肺がん細胞で136pmol、正常細胞で15pmol)だった。また肝がん細胞では、薬が効く濃度(IC50)が13.99マイクロモルと、正常な線維芽細胞(37.54マイクロモル)の約3分の1で済んだ。理研の発表では、乳がん細胞は5~10マイクロモルの処理でコロニー形成が有意に抑制され、10マイクロモル以上ではほぼ完全に阻害されたとしている。
培養48時間後、肺がん細胞はCOを利用して正常な線維芽細胞の約9倍の量の薬剤成分を細胞内で合成した。
背景――なぜ一酸化炭素に注目したのか
従来の化学療法は、転移したがん細胞だけでなく正常な細胞にも作用するため、副作用が避けられないことが課題でした。研究チームはこれまで、がん細胞で過剰に作られる代謝物を利用し、がん細胞の上でだけ抗がん剤を合成する「生体内合成化学治療」を提唱してきました。先行研究では、アクロレインという代謝物が利用されています。
近年、がん細胞は正常細胞より多くの一酸化炭素(CO)を産生することがわかってきました。COは有毒ガスとして知られますが、生体内では少量がシグナル分子として働いています。有機合成の分野では、遷移金属錯体を使ってCOをカルボニル基に変換できることが知られており、カルボニル基を持つ薬剤分子の原料にがん内部のCOを使えれば、汎用性の高い治療技術になると考えられました。
越えるべき壁と、4段階の改良
課題は、生体内に多いグルタチオンが金属錯体の働きを失わせてしまうことでした。研究チームは、血清タンパク質アルブミンの疎水性ポケットにパラジウム錯体を閉じ込め、グルタチオンによる失活を防ぐ方法をとりました。
改良は段階的に進められました。フラスコ内ではCOと反応するものの、生理的条件では反応性を失う「錯体1」から出発し、配位子を加えてアルブミンに固定した「複合体2」、アルブミンとの結合を強めて微量のCOでも反応できるようにした「複合体3」、そして抗がん活性の強いオキシニチジン誘導体を細胞内で合成するよう設計した「複合体4」へと進んでいます。複合体2は、グルタチオンが20当量存在する水溶液中でも反応性を保ち、フェナントリジノンを形成したと報告されています。
細胞実験で確認されたこと
複合体3を細胞に投与して48時間後に細胞内容物を分析したところ、フェナントリジノン誘導体は、肝臓(HepG2)・子宮頸部(HeLa S3)・乳(MCF7)・肺(A549)のがん細胞株で多く検出されました。比較対象の正常細胞株(TIG3)では、はるかに少ない量にとどまっています。複合体4は、MCF7とHepG2のがん細胞に抗がん活性を示す一方、TIG3にはほとんどダメージを与えませんでした。MCF7のコロニー形成実験では、10マイクロモル以上でほぼ完全に阻害されています。
副作用の少ないがん治療への新たな切り口
研究チームは、がんに限らずさまざまな病気に特有の代謝物を、単なる診断の目印ではなく治療薬をその場で作る「材料」として使う、新しい創薬戦略の一例と位置づけている。現時点では特定のがん細胞株と正常細胞株を1種類ずつ比較した培養実験の段階で、動物・臨床試験はこれからだが、正常組織への影響を抑えたがん治療を目指す新たな化学的アプローチを示した成果だ。
本研究は2026年9月17日付でNature Communications誌に掲載された。
Xsciens編集部の読み解き
この研究の新しさは、薬を届けるのではなく、がん細胞の代謝を「材料」として薬を細胞内で作らせるという発想にあります。
- 「選択的」は程度の差として読む。理研の発表では正常細胞での検出は「ほぼゼロ」と表現されていますが、本記事で紹介した論文のデータでは、正常細胞でも15pmolの合成が確認されています(肺がん細胞は136pmol)。「がん細胞でだけ作られる」というより、「がん細胞のほうがはるかに多く作られる」と理解するのが正確です。
- 比較の範囲は限られている。正常細胞の比較対象はTIG3の1種類で、実験は培養細胞が中心です。動物実験や臨床への言及はなく、COの産生が少ないがん種にも効くかどうかは今後の課題です。
- 次に注目したい点。研究チームは今後、がん細胞が作る他の代謝物も原料として活用し、疾患の現場で医薬品を合成する「生体内合成化学治療」へ発展させる計画としています。動物での安全性と効果の検証が、最初の関門になりそうです。
この読み解きの参考: 理化学研究所の発表、原論文(Nature Communications)
出典: 理化学研究所、Kawai et al., Nature Communications 17, 9603 (2026)、テック・アイ生命科学
論文情報:Kawai, M. ら, “Harnessing endogenous carbon monoxide for cancer-selective drug synthesis”, Nature Communications 17 (2026), DOI: 10.1038/s41467-026-77616-8
