月: 2026年10月

  • 【科学】アルツハイマー病の遺伝子APOE4は、脳の血管を「線維化」させていた――ヒト脳モデルでは、その変化を戻すことにも成功

    【科学】アルツハイマー病の遺伝子APOE4は、脳の血管を「線維化」させていた――ヒト脳モデルでは、その変化を戻すことにも成功

    • およそ4人に1人が持っているとされる「アルツハイマー病になりやすい体質」の正体が、脳の血管レベルで初めて突き止められた。
    • この体質は「APOE4」と呼ばれる遺伝子のタイプで、生まれつき決まっており、食生活や生活習慣のせいではない。
    • 米国の研究チームが調べたところ、APOE4を持つ人は、脳の血管を守っている細胞が「傷跡を作る細胞」に変わってしまい、血管が硬くなったり詰まりやすくなったりすることがわかった。
    • さらに研究チームは、実験の中でこの変化にブレーキをかける方法を見つけ、一部を元の状態に戻すことにも成功した。
    • まだ培養した細胞や動物を使った実験の段階だが、「生まれつきの体質だから仕方ない」ではなく、薬で進行を抑えたり戻したりできる可能性が見えてきたことになる。

    長年疑われてきた遺伝子に、具体的な仕組みが見つかった

    APOE4とアルツハイマー病の関連は、1993年の画期的な研究以来知られてきた。その後の研究では、アミロイドβというたんぱく質の代謝・除去や、脂質の取り扱い、炎症反応など、複数の過程にAPOE4が関わっていることが示されてきた。一方で、APOE4を持つ人に脳血管の異常がしばしば見られることは以前から知られていたものの、なぜ血管が傷つくのかという具体的な仕組みは、はっきりしていなかった。2026年9月24日に学術誌Cellに発表された論文で、マウントサイナイのジョエル・W・ブランチャード博士らのチームは、ヒトの脳組織・実験室で作製したヒト脳モデル・マウスの3種類の証拠を組み合わせ、血管の損傷を特定の「細胞の性質変化」に結びつけた。

    支持細胞が「傷跡を作る細胞」に変わる仕組み

    脳の細い血管は、ペリサイト(周皮細胞)と呼ばれる細胞に包まれている。ペリサイトは血管壁を安定させ、血液脳関門を維持する役割を担う。マウントサイナイのチームは、APOE4がこのペリサイトの一部を「筋線維芽細胞様」の状態に変化させることを発見した。筋線維芽細胞とは、肝臓や肺の線維化に関わる、傷跡を作る細胞のことだ。より多くのペリサイトがこの状態に変化すると、フィブロネクチンなどの細胞外マトリックス(細胞の周囲を埋める足場状の物質)が蓄積する「血管線維化」が進み、血管の周囲にアミロイドたんぱく質が蓄積しやすくなる。マウントサイナイ自身の発表文では、こうした変化は「血流を損なう可能性がある」と、やや慎重な表現で説明されている。人の体内で血流が実際にどの程度妨げられるかという因果関係までは、今回の研究で直接示されたわけではないためだ。

    図: APOE4が脳血管を傷つけ、元に戻す仕組み
    出典: Blanchard et al., Cell & Cell Stem Cell(マウントサイナイ医科大学、2026年9月24日)のデータをもとに作成

    マウスだけでなく、ヒトの脳組織から導かれた結論

    この研究の注目すべき点は、ヒトの生物学的データに強く根ざしていることだ。研究チームはまず、ヒトの脳血管について単一細胞レベルの遺伝子発現アトラスを作成した。さらに、ヒトのiPS細胞から作られた立体的な脳組織モデル「miBrain」(血管細胞を含む複数の脳細胞種を持つ、実験室で作られたモデル)と、死後のヒト脳組織を調べたところ、両方でペリサイトから筋線維芽細胞様細胞への変化が確認された。同じ仕組みは高齢のAPOE4マウスでも調べられた。変化を実験的に戻せることを最も明確に示したのはmiBrainで、TGF-βのシグナル伝達を阻害すると、ペリサイトの被覆が回復し、線維化と血管アミロイドの蓄積が減少した。マウスだけに頼るのではなく、ヒトの組織データとヒト細胞モデル、動物モデルを組み合わせたことで、この仕組みが実際の人の病気に関与している可能性を支持する材料が増えたと言える。ただし、これもあくまでモデルによる証拠であり、生きた人間の患者で直接示されたものではない点には注意が必要だ。

    もう一つの発見――コレステロールが脳の「清掃システム」を詰まらせる

    同じ研究グループによる関連論文も、2026年8月24日に学術誌Cell Stem Cellでオンライン公開された。こちらは別の脳細胞における、関連する問題を報告している。研究チームは、APOE4が星状膠細胞(アストロサイト)の中にコレステロールを蓄積させることを発見した。アストロサイトは、エンドリソソーム系と呼ばれる細胞内のリサイクル・分解の仕組みを通じて、老廃物の除去に関わる支持細胞だ。このコレステロールの蓄積により、アストロサイトがαシヌクレインというたんぱく質を処理する能力が低下していた。αシヌクレインは、パーキンソン病やレビー小体型認知症で中心的な役割を果たす毒性の凝集体を形成するたんぱく質で、一部のアルツハイマー病の症例では併発する病変としても見られる。この2本の論文を合わせると、APOE4が神経変性疾患に関わりうる、細胞レベルで異なる2つの経路が示されたことになる。ただし、これらがAPOE4の影響のすべてだと論文が主張しているわけではない。

    TGF-β(トランスフォーミング増殖因子ベータ)のシグナル伝達を阻害すると、実験モデルでは「ペリサイトの被覆が回復し、線維化と血管アミロイドの両方が減少した」――これは、APOE4に伴う血管の異常の少なくとも一部が、必ずしも不可逆ではないことを示す証拠だ。

    「モデルの中で元に戻せた」ことこそが本当の意味での見出し

    マウントサイナイの発見の中で最も重要なのは、損傷そのものよりも、その一部を実験的に元に戻せたという点だ。ペリサイトが筋線維芽細胞様の状態に変化する過程は、TGF-βと呼ばれるシグナル伝達経路によって駆動されている。研究チームが実験モデルでTGF-βのシグナル伝達を阻害したところ、ペリサイトは傷跡を作る細胞への変化を止め、血管線維化と血管周囲のアミロイド蓄積の両方が減少した。これにより、研究者たちはさらに検証すべき具体的な標的を手にしたことになる。TGF-βのシグナル伝達、そして関連論文で示された脂質代謝やエンドリソソーム経路は、今後、アルツハイマー病やαシヌクレイン病理を伴う神経変性疾患の研究で検証すべき経路を示す、有力な手がかりになる可能性がある。これは、すでに蓄積してしまったアミロイドを後から取り除こうとするアプローチとは異なる方向性だ。

    APOE4を持つ人にとって、この研究が意味すること

    今回の発見は治療法そのものではなく、損傷の回復が示されたのも細胞・動物モデルの段階にとどまる。実際の患者に届く薬になるには、これから何年もの検証が必要だ。とはいえ、この研究はAPOE4の意味づけを変えるものだと言える。この遺伝子型を持つことは、病気を保証するものでも、アルツハイマー病の「オン・オフ」を決めるスイッチのようなものでもない。むしろ、今回見つかったペリサイトの変化のように、複数の生物学的な過程をわずかに病気の方向へ傾けるものだ。およそ4人に1人がAPOE4を持つとされる中で、この研究の意味は、APOE4を単なる「リスクの指標」としてだけでなく、将来の研究で検証できる具体的な細胞・分子の仕組みとして捉えるための手がかりを示した点にある。

    出典: Mount Sinai Newsroom、Cell誌論文、Cell Stem Cell誌論文、米国立老化研究所(NIA)

    論文情報:Schuldt, B. R. ら, “A pericyte-to-myofibroblast transition links APOE4 to cerebrovascular degeneration”, Cell (2026)。Mesentier-Louro, L. ら, “Cholesterol dysregulation in APOE4 astrocytes promotes α-synuclein pathology in miBrains”, Cell Stem Cell (2026)

    関連記事

  • 【科学】スイスの氷河、2026年に氷の5.5%が消失――5年で2割減、欧州の夏を支える「氷の貯金」が底を突き始めた

    【科学】スイスの氷河、2026年に氷の5.5%が消失――5年で2割減、欧州の夏を支える「氷の貯金」が底を突き始めた

    スイスの氷河は、2025~2026年の観測年に氷の量のおよそ5.5%を失った。氷河観測網GLAMOSの記録のなかで、2022年に次ぐ観測史上2番目に大きな年間消失量だ。過去5年間では、氷のおよそ5分の1を失っている。このペースは過去のどの5年間と比べても2倍以上速い。変化はスイス国内だけの問題ではない。氷河からの融け水は、ローヌ川やライン川など下流の人々が飲み水や農業、発電に使う河川を支えており、とくに暑く乾いた夏にその役割は大きくなる。

    観測史上2番目の年――しかもその直前の5年が史上最悪だった

    今回の数字は、GLAMOS(スイス氷河モニタリングネットワーク)によるものだ。ETHチューリッヒと、フリブール大学、チューリッヒ大学が共同で運営し、毎年スイス国内23の氷河で詳しい質量収支の測定を行っている。2025~2026年版の年次報告書によると、氷河の平均的な「質量収支」はマイナス2.86メートル(水換算)だった。質量収支とは、積もった雪の量から融けた分を差し引き、氷河全体に広げた水の深さに換算して表す指標で、この値はGLAMOSの記録のなかで2番目に大きなマイナスだった。もっとも大きなマイナスは、2022年のマイナス3.13メートルだ。

    氷の体積に換算すると、2025~2026年の融解でスイスの氷河はおよそ5.5%の氷を失った。観測対象の23氷河のうち10で、水換算3メートルを超える減少が記録された。アラリン、クラリデン、アルプス最大のグロッサー・アレッチ、ローヌの4氷河は、それぞれの観測史上もっとも大きな年間消失を記録している。

    5年単位でみると状況はさらに厳しい。2021年以降の5年間で、スイスの氷河はその体積のおよそ20%を失い、このペースは過去のどの5年間と比べても2倍以上速いとGLAMOSは説明する。より長い期間でも同じ加速が確認でき、1990~2000年でおよそ10%、2000~2010年で14%、2010~2020年で17%、直近10年間の2016~2026年ではおよそ27%の氷を失った。

    スイスの氷河の10年ごとの消失量を示す棒グラフ。1990年代10%、2000年代14%、2010年代17%、2016~2026年は27%
    スイスの氷河が失った氷の量(10年ごと)。出典: GLAMOS / ETHチューリッヒ 年次報告書2025/26。

    なぜ今年はここまで悪化したのか

    2025~2026年が深刻化した背景には、2つの季節が重なっている。まず冬の積雪量が、4月末の時点で平年より25%ほど少なく、氷河は夏を迎える前から雪による保護層が薄い状態だった。続く4月~9月の「夏半期」は、GLAMOSを率いるETHチューリッヒのマティアス・フース教授によると、1864年に気象の全国統計が始まって以来、スイスでもっとも暑く乾燥した期間だったという。氷点の高度――大気中で気温がセ氏0度になる高さ――は76日間にわたって4000メートルを超え、平年の2倍以上でスイスの新記録となった。9月には、標高3500メートル付近でも雪がほとんど残っていなかった。

    冬に蓄えた雪による増加分を融解が上回り、それ以降は融けるたびに氷河の質量が減っていく日を、GLAMOSは「氷河消失の日」と呼ぶ。2026年のその日は6月29日で、GLAMOSの記録のなかで2番目に早く、最速だった2022年よりわずか3日遅いだけだった。2026年の消失量が2022年にわずかに届かなかった一因は、サハラ砂漠からの砂塵が少なかったことだ。砂塵が雪に積もると太陽光の反射率が下がり熱を吸収しやすくなるが、2022年に比べて2026年はその影響が小さく、雪はより多くの太陽光を反射できた。

    一部の氷河では、表面だけでなく内部からも崩れ始めている

    研究者たちは、通常の表面融解に加えてもうひとつの変化を指摘する。一部の氷河の末端部では、融けた水が氷の内部に浸み込んで空洞やトンネル状の水路をつくり、大きくなると氷が内側から崩れ落ちる。単に端から後退するのとは異なる壊れ方だ。フース教授は、数年前まで氷に覆われていた標高の高い場所――グロッサー・アレッチ氷河のコンコルディアプラッツ付近や、マッターホルン近くのフィンデル氷河周辺など――で、むき出しの岩とがれきだらけの地形を目にしたと語り、月面のような風景にたとえている。

    氷河がまるごと消えるケースもある。ヴァレー州のベラ・トラ氷河は、数十年にわたる観測の末、2026年に完全かつ恒久的に消滅したとみられる小規模氷河のひとつだ。GLAMOSの推計では、2016年から2023年の間だけでもスイスの小規模な氷河およそ100が消滅しており、2026年にも複数の小規模氷河が姿を消した。

    記録的な融け水の夏は、同時に警告でもある

    2026年7月から9月の間だけで、スイスの氷河からおよそ2兆2000億リットルの水が放出されたと推計されている。スイス全世帯が1年間に飲む水の量の4倍以上だ。

    2026年7月から9月にかけて、スイスの氷河からおよそ2兆2000億リットルの融け水が放出された。これは、スイス全世帯の年間の飲料水使用量の4倍以上にあたる。

    これだけ聞くと水が豊富にあるように感じられ、実際、短期的にはそうだった。暑く乾燥し水の需要が高まる夏に、この余分な水が河川を支えたからだ。

    しかし氷河学者たちは、この現象の意味をはっきりと指摘する。これは再生可能な供給源からの水ではなく、縮み続ける「貯金」から一度きり引き出しれた水だ。氷河は本来、もっとも水が必要とされる暑く乾燥した年に余分な水を放出し、雪が多い年にその「貯金」を積み増す緩衝材の役割を果たす。ただし積み増しは、積雪量が融解量を上回るときに限られ、近年はその条件が満たされないことが多い。氷の「貯金」が減るほど、将来の干ばつを和らげる力も弱まっていく。

    この変化はスイス国内にとどまらない。氷河の融け水はローヌ川やライン川をはじめとするアルプス地域の河川の夏の流量を支え、とくに暑く乾燥した時期にフランスやドイツなど下流の地域へ水を届けている。2026年の夏にこれほど豊富な融け水があったのは、それだけ多くの氷を「手放す」余地がまだ残っていたからだ。氷河がさらに小さく薄くなれば、次の暑い夏に放出できる水は少なくなり、小規模な氷河のなかには姿を消すものも出てくるだろう。

    長期データが示すもの

    GLAMOSの価値は、その観測期間の長さにある。数十年にわたる継続的な測定があるからこそ、研究者はたまたま悪い一年だったのか構造的な変化なのかを見分けられる。直近10年間(2016~2026年)の消失量は、それ以前のどの10年間よりもはるかに大きい。2026年の観測期間終了時点で、スイスの氷河に残る氷の体積はおよそ42.6立方キロメートル、氷河に覆われた面積は714平方キロメートルと推定され、2000年と比べて体積で30立方キロメートル以上、面積でおよそ3分の1の減少にあたる。

    研究者たちは、記録的な年であっても単独で今後を予測する根拠にはならないと注意を促す。雪の多い寒い冬が来れば、傾向が一時的に和らぐこともありうる。それでも、GLAMOSが記録してきた「10年ごとに悪化する」という長期パターンは、水資源の管理者や水力発電の事業者、アルプス地域の山岳コミュニティが将来の水供給をどう計画するかという問題に、ますます重くのしかかっている。

    出典: ETHチューリッヒ「Devastating year for Switzerland’s glaciers」、GLAMOS 年次報告書(2025/26年版)、PBS NewsHour / AP通信

    関連記事

  • 【科学】人は何かを選んだ後、脳の中の「情報の並べ方」を組み替えていた――MITの発見、柔軟に学習するAI設計の参考に

    【科学】人は何かを選んだ後、脳の中の「情報の並べ方」を組み替えていた――MITの発見、柔軟に学習するAI設計の参考に

    転職先を選ぶ。買う商品を選ぶ。二つの選択肢から一つを選ぶとき、脳は単に「どちらの価値が高かったか」という情報を保持しているだけではない。MITの新しい研究によると、意思決定が成立すると、脳内では二つの選択肢を表す神経活動のパターンが再編成される。それまでは「最初に提示されたか、2番目に提示されたか」という順序で情報を整理していたが、選択後は「選ばれたか、選ばれなかったか」という基準に切り替わる。この発見は2026年9月、学術誌iScienceにオンライン掲載された。多数のニューロンの活動をまとめて解析することで、意思決定に伴って神経表現がどのように再編成されるかを示した研究だ。AIを使った実験ではないが、状況に応じて内部の表現を柔軟に更新するAIの設計を考える研究者にとって、参考になる事例と言える。

    なぜ「決める瞬間」を観察しようとしたのか

    前頭前野は、脳の前方に位置し、意思決定や作業記憶などに関わる領域だ。選択肢を比較し、意思決定を行ううえで中心的な役割を担うことは、以前からよく知られていた。この領域では、一つのニューロンが複数の情報に応じて活動を変える「混合選択性」という性質が知られている。ただ、はっきりしていないこともあった。ごく短い間に評価した二つの選択肢を、脳はどうやって混同せずに扱うのか。特に、一方を選び、もう一方を退けた後はどうなるのか。これを確かめるため、MITの大学院生リー・フイディ(Huidi Li)氏と、同大学ピッカウアー学習記憶研究所のアール・K・ミラー教授を中心とするチームが、答えを推測するのではなく、ニューロン一つ一つの活動を追跡することにした。チームには、ニコラオス・クリサンティディス氏、スコット・ブリンカット氏、ヨナス・ローゼ氏も加わった。研究成果はiScience誌に発表され、MITは9月22日付でこの研究を紹介した。

    数百個のニューロンで「決める瞬間」を観察する

    研究チームは、体重約13kgのオスと約9kgのメスのマカクザル2頭に、簡単な報酬ゲームを覚えさせた。まず画面上の4カ所のどこかに1つ目のターゲットとなる白い四角が一瞬表示され、続いて色のついた輪が現れて、その選択肢が1〜13滴のジュースに相当することを示す。同じ流れで、別の場所に2つ目のターゲットとその価値が示される。両方を見た後、サルは好きな方を見つめて選び、対応するジュースを受け取った。オスはより価値の高い選択肢を約98%の試行で選び、メスは約79%だった。この間、研究チームは、前頭前野のうち側面にあたる外側前頭前野から、オスで316個、メスで422個のニューロンの電気活動を、合計40回の記録セッションにわたって集めた。研究チームは、個々のニューロンを別々に見るのではなく、数百個のニューロンの活動をまとめて解析した。ニューロンそれぞれの活動を別々の軸として多次元の空間に表すと、集団としての活動は限られた方向・次元に沿って分布する。このような活動のまとまりを「神経部分空間(サブスペース)」と呼ぶ。二つの部分空間が互いにほぼ直角の関係にあるとき、それらは「ほぼ直交している」と表現される。

    2頭のマカクザルで記録したニューロン数と正答率を示す棒グラフ
    出典: Li et al., iScience (2026) のデータをもとに作成

    選ぶ前は「提示順」、選んだ後は「選択の結果」

    この見方で結果を見ると、情報の整理のされ方がはっきりと切り替わっていることが分かる。選択の前は、最初に提示された選択肢と2番目に提示された選択肢を表すサブスペースが、提示順を軸にほぼ分かれていた。サルが選んだ後は、様子が変わる。1番目に提示されたか2番目に提示されたかではなく、「選ばれた選択肢」と「選ばれなかった選択肢」という区別に沿って、表現が再編成されたのだ。選ばれた選択肢と選ばれなかった選択肢は、元の提示順とは関係なく、それぞれ別の、ほぼ直交するサブスペースへ移っていった。研究チームは、この再編成のおかげで、下流の脳領域が意思決定の結果を効率よく読み取れるのではないかと考えている。どの位置で提示されたかを気にせず、一貫した形式で情報を受け取れるからだ。

    「脳は情報をただ静的に保持しているわけではない」とリー氏は述べている。

    「選択」を固定的に担当するニューロンは存在しない

    もう一つ注目すべき結果は、この再編成が個々の細胞レベルでどう起きていたかだ。研究チームは、「選ばれた選択肢」や「選ばれなかった選択肢」だけを表す、固定された神経細胞の集団は見つけられなかった。その代わり、個々のニューロンは試行ごとに参加する集団を変えていた。その時の課題の内容に応じて、別の一時的な細胞集団に加わっていたのだ。この分野の研究者の間では、こうした柔軟で重なり合う符号化の仕組みは、限られた数のニューロンでより多くの情報の組み合わせを表現する一つの方法だと考えられている。ただし、今回の研究では、この柔軟性によって表現力がどれだけ増すのかを直接測ったわけではない。

    この発見が研究室の外に意味すること

    今回の研究は、AIシステムを対象にしたものではない。研究チームもAIを開発しようとしていたわけではなかった。それでも、この結果はAI研究者が関心を持つ問いにつながっている。AIの継続学習では、新しい情報を学習すると、それ以前に学習した情報の性能が低下してしまう「破局的忘却」が課題になることがある。今回の研究はこの問題を直接扱ったものではないが、課題の段階ごとに内部表現をその場で組み替えるという今回のような生物学的な仕組みは、状況に応じて内部表現を柔軟に再編成するAIの設計を考えるうえで、一つの参考材料になる可能性がある。さらに、今回の発見は、もっと身近な問いにも小さな答えを与えている。選択した後も、選ばれなかった選択肢は記録された活動から消えなかった。独自の、区別されたサブスペースに表現され続けていたのだ。MIT側の説明によれば、選ばなかった選択肢についての情報も保持されていることは、後から「どの選択がどの結果につながったか」を学習する際に役立つ可能性があるという。ただし、この学習の過程自体は、今回の実験で直接確かめられたわけではない。

    まだ分かっていないこと

    研究チームは、今回の研究の限界についても率直に認めている。実験に参加したのは2頭だけだ。課題も、はっきり異なる離散的な報酬額を持つ二つの選択肢から一つを選ぶという、単純で逐次的なものであり、現実の複雑な意思決定とは大きく異なる。価値が連続的に変化する場合や、選択肢が三つ以上ある場合、あるいは人間の意思決定そのものでも、同じような再編成が起きるのかは、まだ分かっていない。これは今後の研究が答えるべき問いだと、研究チームは述べている。マカクザルとヒトの前頭前野には、構造上の共通点が多い。そのため、こうしたサル研究は、ヒトの認知についての仮説を立てる際によく使われる。ただ、同じ再編成がヒトでも起きるかどうかを確かめるには、ヒトを対象にした別の研究が必要だ。また、今回はあくまで記録を中心とした研究だったことも忘れてはならない。神経の表現が意思決定とともに変化することを示しただけで、その再編成自体が選択という行動を引き起こしていると証明したわけではない。今後は、より多くの個体やより複雑な意思決定課題、さらにヒトを対象とした研究で同様の再編成が確認されるかが重要になる。

    いまのところ、この研究は、ほとんど哲学的にも聞こえる問いに、具体的で慎重な答えを示している。「何かを選んだ直後、頭の中では何が起きているのか」という問いだ。少なくとも、単純な課題に取り組む2頭のサルの、ある一つの脳領域では、脳は二つの選択肢の整理の仕方を、下した選択を軸にそっと組み替え直している。研究が示したのは、そういうことだ。

    出典: MIT News(マサチューセッツ工科大学)、iScience(Li et al., 2026)、EurekAlert!

    論文情報:Li, H., Chrysanthidis, N., Brincat, S., Rose, J., Miller, E. K., “Neural subspace reorganization reflects value-based decision-making”, iScience (2026)

    関連記事

    あわせて読みたい: AIが学ぶ仕組みの基礎はバックプロパゲーションとは?3分でわかる仕組みと将来性で解説しています。

  • 【科学】土星の衛星エンケラドス、噴き出す氷は海水の”そのままの縮図”ではなかった――生命探査の読み解き方を左右する発見

    土星の衛星エンケラドスでは、地下の海から噴き出した水が、宇宙空間へ飛び出すまでの間に”化学的な仕分け”を受けている可能性がある。ベルリン自由大学と東京科学大学などの国際研究チームが、探査機カッシーニが観測した氷の粒のデータと室内実験を照らし合わせ、その仕組みを提案した。噴き出す氷の一粒一粒は、必ずしも海水をそのまま縮小したものではないという今回の結果は、今後エンケラドスへ生命の痕跡を探しに行く探査機が、観測データをどう読み解くべきかに影響しそうだ。

    「凍る速さ」が塩の運命を決める

    研究チームは、エンケラドスの海水を模した水滴を使った室内実験を行った。直径およそ200マイクロメートルの水滴を、1分間に10ケルビン以下というゆっくりした速度で冷やすと、塩化ナトリウムや炭酸塩、リン酸塩などの成分が一様に混ざらず、それぞれ別の領域に分かれて濃縮されることが分かった。急速に冷やした場合は、これほど顕著な偏りは見られなかったという。

    カッシーニが見た961個の”バラバラな”氷の粒

    地下でゆっくり凍って成分が分かれた水滴は、その後どうなるのか。研究チームは、水滴が狭い噴出孔を上昇する過程で加速し(モデル上ではおよそ時速1000キロに達するとされる)、氷の壁などにぶつかって砕けるという形成シナリオを提案している。2004年から2017年にかけて土星を周回した探査機カッシーニの宇宙塵分析器(CDA)は、探査期間中に採取した塩に富む氷の粒961個分の質量スペクトルを記録しており、ナトリウム塩が多いもの、炭酸塩が多いものなど粒ごとに組成が大きく異なっていた。今回のモデルは、この「同じ海から来たはずなのに粒ごとにバラバラ」という謎をうまく説明できるという。

    「海の成分がそれぞれ分離し、同時に個々の氷の粒に濃縮されている」――フランク・ポストベルク教授(ベルリン自由大学)
    エンケラドスの氷粒形成モデルの模式図
    出典: Freie Universität Berlin / 東京科学大学の発表データをもとに作成(氷粒形成の提案モデル)

    生命探査の”読み解き方”を変えるかもしれない発見

    この結果が示すのは、氷の一粒一粒が必ずしも海全体の成分をそのまま表しているわけではない、ということだ。将来、NASAが検討する探査機構想「オービランダー」のように、氷の粒を採取して生命の痕跡を探すミッションが実現した場合、個々の粒の組成の違いを踏まえて分析する必要が出てきそうだ。研究チームは、有機物など生命に関連しうる物質についても同様の濃縮が起きる可能性があるとみており、実証にはさらなる検証が必要としている。

    エンケラドスは、太陽系の中でも生命が存在する可能性が特に注目されてきた天体の一つ。氷の粒の”生い立ち”を踏まえた読み解きは、今後の探査計画にとって無視できない論点になりそうだ。

    出典: Freie Universität Berlin プレスリリース、Science Advances (DOI: 10.1126/sciadv.aee7256)

    論文情報:Postberg, F., Zou, Z., Sekine, Y., Koga, M., Schmidt, J., Fox-Powell, M., Klenner, F., Hillier, J. K., Khawaja, N., Kadono, T., Çakar, M., Kempf, S., Srama, R., “Cassini CDA observes compositional segregation of Enceladus’ ice grains from slow freezing and fragmentation of oceanic spray”, Science Advances (2026), DOI: 10.1126/sciadv.aee7256

    関連記事

  • 【科学】「1日の長さ」は本当は一定ではない――地球の中心で綱引きする力が、自転速度の変動を左右していた

    私たちが当たり前のように思っている「1日24時間」は、実はミリ秒単位で揺らいでいる。特に数十年という長い周期で生じるこの揺らぎには、地表からは決して直接見ることのできない、地球の中心にある固体の「内核」とマントルの力関係が深く関わっていることが、カナダ・アルバータ大学の研究チームによるモデル解析で示された。GPSなどの衛星測位や国際的な標準時刻の管理を支える精密な地球回転の把握は、この見えない地球内部の”綱引き”と無縁ではない。

    地球の自転を左右する「綱引き」

    アルバータ大学物理学科のホイフェン・チャン氏とマチュー・デュンベリー氏は、1964年から2019年までの地球の自転速度データと、地震学的研究から推定された内核の回転履歴、外核の流れのモデルを組み合わせて解析した。その結果、約60〜70年周期で生じる「1日の長さ」の変動(振幅にして数ミリ秒程度)は、内核の重力トルクを主な駆動要因とするモデルでよく説明できることを示した。論文は2026年9月23日付の学術誌ネイチャーに掲載された。

    地球内部では、マントルの奥、深さ約5000kmのところに半径およそ1220kmの固体鉄の「内核」があり、その外側を液体の「外核」が包んでいる(内核と外核を合わせた”核”全体としては火星に近い大きさになる)。研究チームによれば、内核の形状や質量分布のわずかな偏りが、マントル内部の重い部分との位置関係によって重力トルクを生み、これが内核とマントル全体の回転速度を変化させる主な要因になっているという。

    地球の中心で綱引きする3つの力(重力トルク・電磁トルク・地形トルク)の模式図
    出典: Zhang & Dumberry, Nature(2026)のデータをもとに作成

    見えない”核”の動きが、地球回転の把握に関わる

    この重力トルクに対しては、外核の流れがCMB(核・マントル境界)の凹凸と相互作用する地形トルクや、外核の流れが地球磁場を介してマントル最下部の導電層と結びつく電磁トルクが”ブレーキ”として働き、変動を抑えている。モデルによれば、重力トルクの強さは推定0.6〜4.2×10の19乗ニュートンメートル、内核はマントルに対して東向きに年0.12度の差動回転を続けているという。いずれも直接測定値ではなく、自転速度のデータからモデルを介して導き出された推定値である点には注意したい。

    先行する地震学的研究によれば、内核はマントルより速く回っていた状態から、2010年頃を境に遅く回る状態へ切り替わったとみられる――今回の研究はこの知見をモデルに組み込んでいる

    地球の自転速度の変動は、精密な地球回転の観測・予測や、世界の標準時(協定世界時)を維持する「うるう秒」運用とも関わる要素だ。近年は地球の自転がわずかに速まる傾向もあり、うるう秒の運用見直しが国際的に議論されている。今回の研究は、地表で観測できる自転のわずかな変化と、直接観測できない地球中心部の物理モデルを結び付ける手がかりを与えるものだ。

    内核は掘削して直接調べられない場所にあり、地震波の伝わり方などの間接的な手法でしか性質を知ることができない。研究チーム自身、結果は内核・外核モデルの精度に左右される部分が残るとも認めている。それでも、「1日の長さ」という身近な指標から地球深部の物理モデルを検証する今回の手法は、内部を探る新たな手がかりとして注目される。

    出典: Zhang, H. & Dumberry, M. “Gravitational torque drives multidecadal variations in length of day.” Nature 658, 119–124 (2026)、Nature News & Views 解説記事、ScienceDaily

    関連記事